2006-06-05 第164回国会 衆議院 決算行政監視委員会第二分科会 第1号
結城豊太郎氏は、日本興業銀行の総裁、さらには日本銀行の総裁、そして大蔵大臣と、戦前、財政金融政策について大変活躍をされた、旧安田銀行の総裁もやられた方であります。この結城豊太郎さんが残した言葉に、銀行の生命は信用にありという言葉がございます。
結城豊太郎氏は、日本興業銀行の総裁、さらには日本銀行の総裁、そして大蔵大臣と、戦前、財政金融政策について大変活躍をされた、旧安田銀行の総裁もやられた方であります。この結城豊太郎さんが残した言葉に、銀行の生命は信用にありという言葉がございます。
詳しいことは省きますが、ここでこの抵当権を全部合算すると三十数億円の抵当が次々次々設定されて、安田銀行から金を借りていろいろやっているんです。 問題は、この根抵当権、根抵当というのがまず昭和五十二年に二十九億一千万円で設定されている。約三十億円ですね。根抵当が極度額二十九億一千万円で設定されて、その後です、問題は。昭和五十六年九月三十日、つまりこの土地をいよいよ売ることが決まってきた時期ですよ。
私は昭和七年に安田銀行に入りまして、当時は六大銀行すべて払い込み資本金一億でございましたけれども、当時の預金高はいずれも十億未満でございます。つまり預金高の一割以上のものを、払い込み資本金として持っておりましたわけでございます。現在は預金は私どもの方は五兆五千億ございます。資本金は先ほどお話がございましたように、六百六十億円でございます。
だけれど、少なくとも安田銀行の倉庫にあったところの四万五千カラットは、この人が摘発したということはみんな知っている。この間、一ぺん参考人に出ていただこうと思った世耕弘一さんと青木斌という人が協力して、安田の四万五千カラットは摘発して無事に取り戻したのです。そのほかにも、この人はたくさんやった。
それからもう一つ事実として、この安田銀行の中にあったところの四万五千カラットですか、これは暴力団や何かがからんで、そしていろいろ劇的なことが行なわれて、安田銀行の中に何人かの人が、やくざのような人たちが来て、それで渋谷署の刊事が何人か入って、その人たちを追い返すことができたというほどの劇的な場面があるわけなんです。
ハンチングも安田銀行板橋支店の行員が「入って来た時から注意がひかれ、熟視して記憶していますが、土建の親方風でハンチングは格子が太く青で入ったのをかぶり、黄色の色眼鏡をかけた男でした。」と証拠品帽子の差異と、無い眼鏡を指摘しました。
私は、安田銀行荏原支店、三菱銀行中井支店、帝国銀行椎名町支店と、一連の事件の各現場の犯行の詳細を説明した。犯人がいかに落ちついていたか毒物を扱うのに手慣れたものであったか。聞き終わると山内氏は、「なるほどね」と言ってほほえまれた。そして懇切に、機密のデータをもとに、私はこう推理すると説明してくれた。」以下は山内元大佐の話です。
私の調べたものによれば、東京の安田銀行などは、そういうことをやっておりません。そういう規定があったのを全部はずしております。
これは安田銀行、三井銀行、その他二、三の人たちが、まあ宣伝ですか何か知らぬけれども、やろうという気持を持っておるにすぎないのであって、ことに建築費にいたしましても、昨年審議の過程の答弁というものは五割程度の値上がりでございますと、こういう答弁だった。ところが、冗談じゃありませんよ。
犯人はその間に現金十六万円と、安田銀行板橋支店払の額面一万七千四百五十円の小切手一枚を奪って悠々と逃走した。この時行員十二名か死亡したが、四人の生命を取り止めたので人相着衣が判明し、小切手を現金に換えた者の人相ともほぼ一致し、裏書きの住所氏名も犯人の筆跡と推定された。
すなわち、被告は無罪である、そしてその無罪の実証として、 一、昭和二十二年十月十四日(安田銀行荏原支店に於ける未遂事件の日)のアリバイ 措信される平沢マサ、伊藤カメ、の両氏の証言の綜合より断ずれば被告人は殆んど終日自宅にての絵画に没頭し、若し道を教える為めに伊藤カメと同道外出したにしても其前日も翌日も画筆に執着しながらなんで突如多数人の毒殺を用意し企画し実行し且実行後平然と従来通りの行為を続
そのころは、安田銀行の裏には安田保善社というものがあり、大きく財閥というものが存在しておったのが一つの事実であります。また、金融機関といたしましても、今の相互銀行さんも、信用金庫さんも、その当時は今のような規模やら形ではなかったのであります。従って、その当時の置かれておる銀行と今日の銀行の立場は、それは町の変わりで、非常に大きな差異が出ておることは事実であります。
あなたは大正十三年に安田銀行にお入りになったそうでありますが、そのころの銀行の勢い、特に安田銀行は銀行界のベテランで、それから三十数年、今銀行の頭取として最高の地位におられるのですが、そのころの安田銀行の勢いと今日の銀行の状態をお考えになり——あなたはお年をお召しになりましたから、多少元気もなくなったでございましょうけれども、私も大正十年ごろ中学校を出た当時の安田銀行の姿を知っております。
なおまた参考といたしまして、大阪の安田銀行に評価鑑定を依頼いたしまして、その上で財務局にこの交換を上申したわけでございます。それによりますれば、その当時の評価額は延原の方が総額において八十万円余り多かったことは記憶いたします。
富士銀行というのはかっての安田銀行ですね。それから、株主の大きい順から言うと、第一が富士銀行、第二が安田火災、一つ飛んで第四に安田生命ということになって帝国製麻はほとんど安田系列のいわゆる金融機構が主要な株主ということになっているのです。それから、中央繊維の場合においても、株主の第一がやはり富士銀行です。それから、第三位が安田火災、第四位が安田生命ということになって、これは内容が大体同じなんです。
お手元の履歴書で御承知のように、金子鋭君は、大正十三年四月東京帝国大学法学部政治学科卒業後、株式会社安田銀行へ入行し、神奈川、馬喰町、小倉及び名古屋の各支店長を歴任し、取締役、常務取締役、専務取締役の各役員に就任いたしましたが、昭和二十三年十月、社名を株式会社富士銀行と変更後、取締役副頭取を経て、現在、同社頭取の職にあるのでありまして、また、現に東京銀行協会理事、全国銀行協会連合会理事及び東京商工会議所議員等
そこで古荘頭取、それから、たしか安田銀行の児島副頭取というような陣容で発足をし、昭和二十一年の三月の任期満了のときに、副頭取の児島氏は引いて、頭取の古荘氏はそのまま残った。
それから専務取締役が湯本喜作氏でございますが、これは安田銀行の出身の方でございます。それからもう一人専務取締役として長井実行という方がおられますが、この方はたしか海運局長をおやりになった方かと存じます。それから常務取締役は三名おりますが、三名のうちの二人はかつて資材局に勤務しておりましたが、地位としてそう高い地位についた人でもございません。それから一人は経理局に勤務いたしたものでございます。
この評価は近畿財務局に依頼して行なったものでございまして、近畿財務局におきましては相続税課税標準価額、土地評価関係の精通者といたしまして大阪商事店主、住友信託銀行本店不動産部副長、北税務署主税課資産税係、安田銀行大阪支店不動産課長、三菱信託銀行大阪支店長代理、その他数名の者からの意見、さらに安田信託銀行の鑑定などを参酌いたしまして慎重に諸般の事情を考慮して厳正に評価したものでございまして、右の評価額
この評価は近畿財務局に依頼して行いましたもので、近畿財務局におきましては第一に相続税課税標準価格をとり、第二に土地評価関係精通者として大阪商事店主、住友銀行本店不動産部副長、北税務署直税課資産税係安田銀行大阪支店不動産課長、三菱信託銀行大阪支店長代理等から意見を徴しました。
この評価は近畿財務局に依頼して行なったものでありまして、近畿財務局におきましては、(一)相続税課税標準価格、(二)土地評価関係精通者として、大阪商事店主、住友銀行本店不動産部副長、北税務署直税課資産税係、安田銀行大阪支店不動産課長、三菱信託銀行大阪支店長代理等からの意見を聴取し、(三)安田信託銀行の鑑定等を参酌し、慎重に各方面の事情を考慮して厳正に評価したものでございまして、右の評価価格は極めて適正